会津若松にて
せっかく福島県にいるのだから、と会津若松城(鶴ケ城)に立ち寄りました。
天守閣は昭和40年くらいに復興されて、まあ中に入ると意外に近代的でガッカリしたんですが、天守閣からの眺めはなかなかのモノでした。昔の作り方だと「五層、七階」とか
城の入口に一人、鎧を着たアルバイトらしき方を見かけました。「もしかして大手門をくぐったら、沢山いるのかな?」とおもって見てみると…
ざっと200人くらいいました
上杉景勝が居城してて、今の大河ドラマの直江兼続の人気もあって、大賑わいでした、連休の最終日だったしね(^^)
城の歴史は古く、歴代城主をさかのぼるとキリがないん、だけどざーっと行くと
1.源平時代、三浦半島の佐原氏と言う豪族が、源頼朝の奥州平定の論功行賞で会津四郡を貰う⇒分家して芦名家
2.時は下って、天正年間。芦名家の内紛等々に乗じて伊達政宗がしきりに攻め立てる
3.やーっと、やーーっと、念願の想いで、会津を手に入れた
と思ったら
4.秀吉が翌年、天下を統一して、たった一年で取り上げられる(泣)
5.秀吉、子飼いの蒲生氏郷に任せる
この蒲生氏郷が大きな転機となった模様です。彼は入部する時も伊達政宗の「宿も貸さない」「薪も売らない」等々の、嫌がらせに遭いながらも、街の整備に乗り出した。場所と時間を工夫して
街のどこかで必ず、毎日、市が立つようにした。
のである。これで、会津は急速に年としての発展を遂げた。この時代の戦国武将は経済的なセンスが無いと、上には上がっていけない。武田信玄のように自国に銀山や金山を持ってる武将はこの点スタートの時点からとても楽だったと言えるでしょう。
では、その「原資」に当たるものを持ってない武将はどうしたらいいのか?というと、「自分で市場を切り開く」⇒その膨らんだ中でロイヤリティーを貰って、冨を蓄えるしかないのです。
もちろん織田信長が始めに気づいてちゃんと実践したのだけど楽市楽座も天才的なアイディアだと言ってもいいでしょう。この時代もう既に、ただ単に「戦争が強い」と言うだけではいけなくなって来てます。
閑話休題(ところで)
話を超略年表に戻すと
6.上杉景勝に与えられる(今、大河ドラマでやっている時代だね)
7.関が原のあと、蒲生⇒加藤家
8.保科正之(ほしなまさゆき)が継ぐ
この保科正之が実は徳川二代目将軍、秀忠が
女中に手をつけたときの隠し子
でして、彼は妻の嫉妬を恐れて、父子の対面もしなかったほどです。
いかに時の将軍と言えど奥さんが怖かったようです。
そして幕末へと続くのです。
続く、かもしれない…
























































やっぱり行ってましたね!会津まつり!
転んでもタダじゃ起きない人が、田舎暮らしを堪能する旅で満足するとは思ってませんでしたよ(笑)
ところで、
年……???何年???→→→都市
入部……何部に入部?→→→入城
ではなかろうかと(´・ω・`)
ああ!ひっかけ問題!?
もしくは間違い探しだ!
そうだよね、りぃーだぁ?(^o^;)
投稿者: かずみん | 2009年10月07日 01:22